見据えるのは、海外。民藝の新境地を拓く、坂本創の物づくり。

「EDiT.」が贈る民藝シリーズ「ミライノミンゲイ」。第3回目でフィーチャーする陶工は、小鹿田焼界の“アバンギャルド”代表、坂本創(そう)さん!

個展を開けばあっという間に完売し、人気セレクトショップでは、最先端のアパレルとともに作品が陳列される、まさに異色の民藝職人。小鹿田焼のイメージを鮮烈に塗り変えつづけるその物づくりの裏には、一体どんな想いが秘められているのでしょう?

→Vo.01坂本浩二さんへの単独インタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/9669/

→Vo.02坂本拓磨さんへの単独インタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/10776/

→小鹿田焼の魅力と窯元全9軒の徹底解説はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/10688/

坂本創プロフィール

1990年大分県日田市・小鹿田焼の里生まれ。佐賀県の工業高校の焼き物科を卒業後、鳥取県の名窯「岩井窯」の山本教行さんに師事。2年間の修業を経て、家業である小鹿田焼「坂本工(たくみ)窯」に入る。実父である坂本工さんと共に作陶しながら、日本各地で個展や企画展を精力的に行う。

目次

20年もののヴィンテージカーに宿る、焼き物屋のプライド

長めの赤いウェービーヘア。第一印象は、“まるでミュージシャン”? 牧歌的な小鹿田焼の里で、ひと際異彩を放つ存在、それが坂本創さん、32歳。

家業は、現在9つある小鹿田焼の窯元のうちの1つ「坂本工(たくみ)窯」。窯元の息子として生まれ、いつかはそれを継ぐという宿命を背負いながらも、「将来をいつから決めてたとかはなにもなくて、なんとなくやってたらこうなった」と笑います。

「あれが、うちの車なんですけど」と、指さす先には、年季の入った英国のヴィンテージカー。

「僕が13歳のときに、親父が買って。で、バスケの部活のあとに、親父が突然あれに乗って迎えに来てくれたんですよ。それを見たときに『あ、焼き物屋でもこういう車が買えるんだ』って。『じゃあなんとかなるか』と感じたのが大きかったかもしれない」。中学生時代のそんな記憶も、実に創さんらしいエピソードに聞こえます。

「親父はね、維持費がかかるから廃車にしようかなんて言ったんですけど、いやもうちょっと頑張ろうって止めて。この車はうちのプライドでもあるからって。まぁ、頑張れる限りはコイツを維持しようと思ってます」

インタビューは、創さん父子が日々作陶する工房にて。壁や床に豪快に飛び散った釉薬や陶土のしぶきまでが、最高にアーティスティック! 壁には、友人が描いたという蜂の絵が。創さんの独創性が体現されたカッコイイ空間。

作陶への想いがポジティブになった、「岩井窯」山本教行さんとの出会い

高校は、「とにかく一回実家を出たかった」という理由で、佐賀県にある工業高校の焼き物科へ。卒業後は「家に戻るまで、もう少し執行猶予を伸ばしたくて…(笑)」と、鳥取県の名窯「岩井窯」の山本教行さんのもとへ弟子入り。

きっかけは、ちょっぴり不純。けれどここが、思わぬ転換期となったと話します。「将来をどこで決めたかと言われれば、一番は、鳥取での2年間ですね」

「師匠のところにね、おもしろいおっちゃんが次から次へと来るんですよ。ほんとド田舎だったんですけど、鹿狩りに行くぞーっておっちゃんたちに誘われて、一緒に獲ってサバいて『今日はこれがお前のギャラな』って脚1本もらったりして(笑)。師匠も『じゃあバーベキューでもするか〜』なんて言ってね。それが衝撃的に楽しかった。焼き物をきっかけに、普段会えないような人に会って、普段しないようなことをする。それは他の商売よりも多い気がして、すごくいいなって。それで気持ちがぐっとプラスに変わりました」

高校を卒業して「岩井窯」へ修業に入る際、実家のある大分県から鳥取県まで、なんと原付で3日間かけて向かったとか。さすが10代の武勇伝もユニーク!

「いろんな人に出会えるっていうのは、今もモチベーションのひとつになっているんですよ」と創さん。

「たとえば僕は、車と洋服が大好きなんですけど、焼き物屋って、やろうと思えば車メーカーとも、アパレルブランドとも一緒に仕事ができる。だから車やアパレルの会社に入って上を目指すよりも、僕の場合、焼き物の分野で上手くなったほうが、そういう業界の第一線の人たちと出会えるし、仕事ができるはずなんです」

今や、名だたるブランドやショップとのコラボを数多くこなす創さんですが、「出会いの楽しさ」の原体験が、鳥取のおっちゃんたちとの鹿狩りにあるとは、とっても意外なエピソード。

「うちの師匠の作風って、実はすごくアバンギャルド! ファニーだし、ポップだし、でも骨太。その影響が一番大きい」。「岩井窯」の山本教行さんの話をするときの創さんは、なんだかとても楽しそう。

ハタチの頃の原動力は「師匠の名前に泥を塗っちゃいかん!」

人生を大きく変えた師匠との出会いを経て、ちょうど20歳のときに「岩井窯」での修業を終えた創さん。その後の目標に据えたのは、個展の開催でした。

「師匠が22歳で初めて個展をやったっちゅうんで、じゃあ僕は21歳でやろうと思って。神戸と福岡で2本、個展を開催させてもらったんです。小鹿田焼で個展をやってる若い世代ってあんまりいなかったから、個展をするとけっこう作品は動くんですよ。そうなると、親父もこの世界では名が通ってるし、それこそ僕なんか、師匠の名前もあったんで『これはちょっと、下手がバレる前にうまくなっとかないとヤバイぞ』と、作品づくりに精を出さざるを得なくなりました(笑)」

その頃は「焼き物屋を頑張りたいというより、師匠の名前に泥を塗っちゃいかんよなっていうのが一番先だった」と振り返ります。尊敬する偉大な師匠を持ったからこそのプレッシャーが、どうやらプラスに働いた様子。

創さんが普段愛用している食器の中に、敬愛する師匠の作品を発見! バカラのグラスや、岡山・仁城逸景さんの漆碗に混ざって、ひと際目を引くユニークなデザインのお皿。こちらが、「岩井窯」山本教行さん作のもの。アートを感じる自由な感性に、創さんが影響を受けたというのも納得できます。

アバンギャルドな作風は“人の縁”で自然と出来た?

一度個展を開催してからは、「じゃあ、うちでもやってよ」「それなら是非うちでも」…といったふうに、次々と新たなつながりが生まれていったそう。「まさに“人の縁”というか、人が人を連れてきてくれた感じで、徐々に大きな仕事がいただけるようになったんです」

「しかも僕、変わった依頼に食いついちゃうんで、それで後で大変なことになったりするんですけど(笑)」と、創さん。

「なんかそんなことばっかやってると、また新しい、変わった仕事が来たりして。それを繰り返していると、結果的に“アバンギャルド”になりました(笑)。よく前衛的だとか、アバンギャルドだとか言われるのも、僕が意識的にそうしたというよりは、周りの面白いオファーに乗っかっていたら、こうなったっていうほうが大きいかも。ある意味、僕にはこれしか選択肢がなかったとも言えるし、性格にも合っていた。一般的な小鹿田焼の陶工の始め方でスタートしていたら、僕はもう辞めてるかもしれないですね」

工房で火入れのときを静かに待つ器たち。「すでに1年後の企画まで、だいたい決まっている」と言うほど、各地で大人気の創さんの作品。この器たちもきっと、瞬く間に日本全国へ飛び立っていくのだろうな。

緻密で稀有なデザインは「めんどくさいこと」から生まれる

こちらが創さん作品たち。小鹿田焼の伝統を守りながらも、ときにモダンで、ときに斬新。本人のキャラクターそのものを物語っているような表情豊かな作品群。

「周りのリクエストに応えていたら、アバンギャルドになった」と笑う創さんですが、その作品はやはり、彼にしか生み出せないものばかり。独創的な模様の数々は、一体どんな感性から生まれるのか?…と問えば、「本当に僕、やってることや道具は、皆さんとなんにも変わらないんですよ」との返答が。

「ただひとつだけ違うところがあるとするなら、皆さんがめんどくさくてやらないようなことを、やっているってことかな。みんな出来るけど、時間がかかりすぎるから避けていることを、たまたまそんなのが好きな性質の僕が、ちまちまとやってる(笑)。そのぶん、他の人が3枚つくれるところを、僕は1枚しかつくれない。しかもすぐ飽きちゃうから、同じ模様をいっぱいはつくらない。その結果、僕の作品ってなかなか手に入らない状態になっちゃってるかも…」

手の込んだデザインと、決して量産されない希少価値。民藝ファンの心をくすぐるその特徴は、「めんどくさいことが好きで、でも飽き性」…そんな創さんの性格から自然と生み出されたものでした。

櫛で引っ掻いて模様をつけ、その上に釉薬を塗り重ねた動きのあるデザイン。「これ、櫛目の上に一個一個、ちまちま色を塗っているんですよ。他の人は絶対、こんなことしないですから!」。これこそ「めんどくさいこと」から生まれた、創さんを代表する模様のひとつ。


 

「心と技術に負荷をかけること」をモチベーションに

今、日本全国の名だたるショップで取り扱われる、創さんの作品。「“人の縁”がつながって、自然と大きな仕事へ広がった」と言いますが、一方で、「でも“人の縁”って、声をかけてもらうほうも、ちゃんとそれなりの体勢を整えていないと、簡単にはつながっていかないと思っている」と続けます。

「新しいオファーが来たとき、『やります!』ってすぐリアクションできるためには、それ相応の技術は常に磨いておきたい。その努力は、“仕込み”として絶対必要だと思っています。ただ作って、売って…を繰り返していると、僕の場合は現状維持すら出来ない気がするので。自分よりはるかに有名なところとか、レベルの高いところと敢えて仕事をすることで、心の負荷と、技術の負荷をかけておかないと、モチベーションが湧かない。そういう場所では、他のものと比べられて、要らないときにはスパッと切られますから。自分にプレッシャーをかけながら、その中でできる努力を怠らず、『飛び込めるだけ飛び込んどこう!』と動きつづけた結果、今があります」

「わざわざそういう難しい場所に自らを持っていって、自分を追い込むのもけっこう大変なんですけど…」と言いながら、「まあそこがマゾの性根というか、Mの極みの楽しみ…なのかな」とニヤリ。実はすごくストイックなのに、その負荷を日々の刺激に変換している姿勢。やっぱり創さん、最高にアバンギャルドです!

民藝でどこまでいけるか。今は壮大な実験の途中

そうやってストイックに高みを目指し続ける創さんですが、今後の目標を聞くと、「付加価値を上げていくことかな」と話してくれました。

「土産物屋さんに置いてもらっているだけでは、付加価値も単価も上がっていかないですから。僕が最近、ちょっといやらしいくらい大企業さんと仕事してるのも、そういった理由もあるんですけど…。いいところで扱ってもらって、いい価値を付けてもらうのって、量産できないからこそ大切なこと。もちろんそのためには、常に売り切れに近い状態にしないと『売れ残ってるのに、値段を上げてどうするの!?』っちゅう話なので。高いステージに強制的に立って、そのレベルを徐々にアップしていく。それでも完売できるかどうか。完売できたらようやく、価格をちょっとずつ上げて…っていう“壮大な実験”を、自分で繰り返しているところです」

そして「付加価値を上げていくこと」を突き詰めると、「やっぱりもう、国内にだけ置いてる場合じゃないなっていう結論になっちゃうかも」と続けます。

「今、イギリスのショップやイタリアのECなどでちょこっと扱ってもらってるんですけど、今後はアメリカや中国にも展開できたらいいなと思っていて。『卸と個展業』から、だんだん『個展と海外』にシフトしていくのが目標です」

高校に進学する際、「海外に行く勇気も、コネも、資金もなかったから、ひとまず佐賀の学校に行かせてもらった」と語っていた創さん。それから約16年。今、自分の手でつくり上げた作品のチカラによって、なんのコネもなかった海外へと着実に羽ばたこうとしている…。

振り替えれば、イギリス車も買えたし、大好きなアパレルのブランドとも仕事ができたし、そして今、海外も目指せるし…。「民藝って、ほんと夢があるなあ!!」……今回、創さんのお話を聞いて、なによりも強く感じたこと。「ミンゲイノミライ」は、私たちの想像以上に、まだまだ壮大に広がっている気がします。

「そんな目標があるなら、もっと働けや!っちゅう話なんですけど…でも飲み会が大事だから…。うちの家訓的に、仕事は遅れてもいいけど、飲み会だけは絶対に遅れるなっていうのがありまして…(笑)」。軽妙なトークにもクギヅケになる、不思議な魅力を持つ人。作品はもちろん、その人柄にもファンが多いのも、うなずけます。

写真/藤井由依 取材・文/乾 純子(Roaster)

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