注目の窯元に出向き、職人に“今の想い”を伺うインタビューシリーズ「ミライノミンゲイ」。
第6回目の舞台は、島根県・松江。松江といえば、茶の湯の町。その発展の一端を、江戸時代より脈々と担ってきた「雲善窯(うんぜんかま)」の10代目、土屋知久さんを訪ねました。
土屋知久さんプロフィール
島根県・松江市生まれ。高校卒業後、瀬戸窯業高校(現・瀬戸工科高校)セラミック陶芸コースを経て、24歳で島根の離島にある「隠岐ノ島 焼火窯」へ弟子入り。その縁もあり、岐阜の「陶磁器試験場」に伝習生として通ったのちに、親戚筋である「雲善窯」へ。先代と2人で作陶していたが、約3年前、先代の引退を機に10代目となる。現在「島根窯元 陶器振興会」の役員も務めている。
「お殿様」のための茶器から、「みんな」のための器へ
今回ご紹介する「雲善窯」、実はこれまで「ミライノミンゲイ」で取り上げてきた、いわゆる「民藝の窯元」とは少し毛色が異なります。
「うちは“御用窯”で“茶陶”なので、厳密に言うと民藝とは違うんですよ」と、10代目の土屋知久さん。
「御用窯」とは、江戸時代に、藩からの命を受けて陶器を生産していた窯、つまり「お殿様のための窯」のこと。
江戸時代後期に松江藩を治めていた松平治郷(はるさと)、またの名を「不昧公(ふまいこう)」。藩主でありながら、江戸時代を代表する大名茶人として名高い人物で、松江に浸透する“茶の湯文化”の基礎を作った人として知られています。
そんな茶人のお殿様好みの御用窯として、茶道具を作るために開かれたのが、「雲善窯」。「雲善」という名前も、不昧公が名付けたものだそう。
260年以上前から脈々と、地元のために茶道具を生産してきた「雲善窯」。江戸時代が終わり、藩が廃止されてからは「御用窯」ではなくなったものの、引き続き由緒正しい茶道具を作り続けてきました。
ところが、昭和初期に入ると、地元に民藝運動が巻き起こります。「その頃から、うちの窯でも、民藝の流れを取り入れることで少しずつ新たな作風も加わってきました。そもそも『お殿様のためのもの』じゃなくなった時点で『みんなのもの』なので、出発点が違うだけで大きなくくりで言うと、うちも『民藝』になるのかもしれませんね」
そして、「茶道をたしなむ人の減少」によって、かつては茶道具だけに専念していた「雲善窯」も、今や「9:1ぐらいの割合で、日用陶器のほうが多い」と話します。
そんな中、今から15年ほど前、窯に入ったのが現10代目の土屋知久さん。彼の登場により偶然か必然か、最近の「雲善窯」を代表する「日用陶器」が生み出されることになるのです。
「あれ良かったよ」。お客さんの言葉が決心させてくれた
「雲善窯」とはもともと、親戚筋に当たる知久さん。「子供の頃からよく遊びに来ていて、小学生の時には、夏休みの宿題の粘土細工を作らせてもらったこともありました」と振り返ります。
「その延長線上で、高校3年生の夏には、アルバイトみたいな感じで手伝うようになって。就職のことを考えないといけないタイミングになった時、ここなら、ある程度仕事の流れもわかっているし、物作りの楽しさも感じ始めていたので、とりあえずやるだけやってみてみよう! もしダメでも、若いしなんとかなるだろう!と、この道に進むことにしました」
「とりあえずやってみようっていう気持ちで続けていたら、いつの間にかこの歳まで来たって感じですよ」と笑う知久さんですが、一生の仕事として意識した決定的瞬間もあったそう。
「高3でこの道を志しましたが、気持ちが固まったのはもっと後。『雲善窯』に入って、展示会でお客様と接した時ですね。器を買ってくださった方が、また次の展示会にも来られて、『この前買ったあの器、良かったよ』って声をかけてくれたんです。その時、『自分が作ったもので、喜んでもらえるんだぁ』って実感して。『僕のやるべきことってこれかなぁ』と、やりがいを感じたというか、自分の中で決心しました」
1000分の1以上の確率で生まれた、奇跡の色
高校を卒業後、瀬戸窯業高校のセラミック陶芸コースを経て、24歳で「隠岐ノ島 焼火窯」へ1年ほど弟子入り。その後、岐阜の「陶磁器試験場」に伝習生として約2年間通った知久さん。そこで没頭したのが「釉薬の勉強」でした。
「あくまで僕の考えなんですけど、物の『形』って、練習を積めば、ある程度できるようになると思うんですよ。でも釉薬の『色』って突発的なものなので、回数を重ねないと分からないことだらけ。ちょっとの差で全然色が違ったり、フッと良いものができたり…とにかく奥が深いんです。だから、時間があるうちにできるだけのことはやっておこうと思って、伝習生時代は釉薬作りばっかりやってましたね」
そうしてこつこつ作った釉薬のテストピースは、なんと1000パターン以上!
「その中から良さそうなものをピックアップしておいて、『雲善窯』で早速試したんですけど…ちょっとイメージと違うものができたんですよ。なんでかっていうと、まず焼く窯が違うし、こっちにはないから、違う土に替えて作ったりしていたので…どうしてもテストピースと同じにはいかなくて…」
ところがそんな「ちょっとイメージと違った色」を先代に見せてみたところ、意外にもリアクションは「なんかこれ、いいね!」
「最初は僕、あんまり好きじゃなかったんですけど(笑)、先代がそう言うなら、じゃあこの色を軸に進めてみようかなと思いました」。それが現在、「雲善窯」の代表的なカラーとなっている「コバルトブルー」の始まりだったのです。
ついに完成した「コバルトブルー」と「ミントグリーン」
きっかけは、先代の「なんか、これいいね!」。しかしその後、確かな手応えがあったと話します。
「はじめて展示会に出した時に、このブルーの売れがすごく良かったんですよ。もともとうちのイメージって、黄色と、ちょっと白っぽい色のものだったので、目新しさもあったのだと思います。さらに当時、島根県の中では、青色の器をメインで作っているところはあまりなくて。『出西窯』の、ガラスのようなソリッドな青はあったんですけど、こういう濃淡が分かる青はなかった。だから展示会でも、お客さんに『これ珍しいですね』って言って買っていただけたので、この青色の方向で煮詰めてみようと思ったんです」
それから、試行錯誤を重ねること、約5年…! 釉薬の濃度、窯の温度や、さらには窯焼きの際の器の配置、冷ますタイミングまで、ありとあらゆる実験を重ねて、やっと完成したのがこの「コバルトブルー」というわけなのです。
奥様のアドバイスが、大人気商品のきっかけに!?
コバルトブルーに、ミントグリーン。これまでの「雲善窯」の歴史にはなかった、新たな「色」を生み出した知久さん。一方で「形」に関しては、「まず第一に、自分が使いやすいもの。あとは…女性の意見をけっこう聞いているかな。メインは奥さんですけど(笑)」と、はにかみます。
「奥さんに、こういう形がほしい!と言われたものを実際に作ってみて、展示会に出して、お客さんの反応が良かったらそれをメインに進めていく…という感じ。でもやっぱり、彼女の意見で作ったものは、うちで一番売れるものになったりするんですよ。女性の意見はすごく大事だなぁと思います」
「もともとうちのカップは、わりと直線的なものしかなかったんですよ。だから最初、奥さんが『もっと曲線を生かした形のものがいい』と言った時も、使いにくいんじゃない?と思ったんです。でも『使いやすさと同じくらい、見た目のかわいさも大切だから!』って説得されて。ちょっと半信半疑で作ってみたんですけど、結果、今うちで一番売れているヒットシリーズになっています」と知久さん。
「そこからもう、奥さんには頭が上がんない感じになってまして…。奥さんの意見には『はい、分かりました』と、全面的に従っています(笑)」
「雲善窯」を、知らない人にも届け続けるために
気負わず、自由に。先代や、奥様、展示会で出会ったお客さんたち…さまざまな人の意見を柔軟に受け取り、吸収することで、新たな方向へと変わり続けてきた「雲善窯」。これからの目標を聞くと、「現在進行形なんですけど、いろんなところへ行きたいし、いろんな人と仕事したいんですよ」と、知久さんらしい答えが返ってきました。
「歴史のある窯なので、これまでは、良くも悪くもどっしりと地元に腰を据えていました。けれど今、それだけだとファンを増やすことは難しいと感じています。だったら、こちらから、まだ知られていない土地にどんどん出向いていくしかない。今、年に6回ほど、全国の陶器市やクラフトマーケットに出店しているんです。地域ごとに売れるものも全然違うので、それを自分なりに調査したり、お客さんと直接触れ合って『こういうのがほしい』っていうリクエストを聞いたりするのが面白くて。今後もこのスタイルを続けながら、僕なりのペースとやり方で、『雲善窯』の未来を作っていきたいなと思っています」
江戸から令和へと続く悠久のバトンは今、ゆっくりと、でも着実に進化しながら、受け継がれています。
写真/藤井由依 取材・文/乾 純子(Roaster)